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カテゴリ:祐介物語( 14 )

祐介物語1-16 手早さ NO1

久し振りの祐介物語
戦後(1946年、昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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ソースいか
祐介の父親は、真面目に仕事をすることはなかったが、
商売の感覚はいいほうだった。
ただ、父親は、商売の資金を自分で調達することはできず、
自分の兄妹や、女房の実家に頼っていた。
この時代、子どもの食べ物や遊ぶものは、町の駄菓子屋に行けば何でも揃っていた。
祐介の父親は、駄菓子屋で売っている"ソースいか"の製造を始めた。

ソースいかの材料は、北海道や青森で獲れたスルメイカを開いて干したもの。
スルメイカは、わら俵に入っていて一俵60Kgあり、
倉庫に運ぶ兄の後姿を、祐介はたくましいと見ていた。
「いつか、おれも、担いで運ぶぞ」と、思っていた。

ソースいかは、スルメイカを切って、大きな釜でソース味に煮た物で、駄菓子屋で1本一円で売られていた。
ソースイカは、一袋に100本入れ、それを箱に収め紐で結わえて出来上がり。
それは、昭和30年代初め飛ぶように売れ、毎日、浅草の問屋が祐介の家の工場に取りに来ていた。

女工さんと競争
一日何百箱もつくるので、家族だけでは無理で、最盛期は女工さんを4~5人雇っていた。
祐介は学校から帰ると、時々、工場に入ってソースイカの袋詰めを手伝っていた。
単純な作業なので、仕事を盛り上げるためと、女工さんを楽しくさせるため、
祐介はいつも、袋詰め競争をやろうと、女工さんにけしかけた。
ソースイカ100本を両手で数えて、ビニル袋に入れる作業の競争と、
ビニル袋を輪ゴムで閉じる競争を5分間勝負します。
祐介は、短距離タイプなので、短い時間に集中して力を発揮するのは強かった。

ベテラン女工さん達と競争をすると、ビニル袋入れも輪ゴム閉じも、祐介が勝ってしまう。
最初のうちは、女工さん達は手加減をしていたが、何回やって祐介が勝つので、
女工さん達も本気になった。それでも、祐介が勝ってしまうことになった。
祐介は手が速いのと、息を詰めて集中することは得意だった。
だが、祐介がどうして敵わなかったのは、母親だった。
母親は働き者で、その上、何をやるのも無駄がなく、速く間違いがなく、持続力があった。

この手伝いをすると、祐介には小遣いが入った。
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by gorongoronisomura | 2013-07-23 16:34 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-15 父親のへそから

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーが間近に見える)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の話です。
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父親に可愛がられることを
6人兄弟の4番目の祐介は、何もしなければ父親からも目立たない存在になってしまう。
祐介は、父親の気を引く術を小さい頃から身につけていた。
父親の機嫌がよさそうな時、胡坐をかいたところにちょこんと座り込む。
その胡坐の上で、父親が喜びそうなことを話す。そうすると、小遣いをもらえた。
父親の戦地の話
祐介は戦後生まれなので、父親の戦地のことは見ているわけがない。
しかし、父親が戦地での経験を話していたことを覚えていた。
「おれさー。戦争のことを父ちゃんのへそから見ていたんだよねー」
これで、父親はニコニコとなる。
戦争は不真面目に
戦地(南方)での父親のしてきたことを祐介が語る。
「お父ちゃん、戦争は大変だね。」
父親は夜の敵の見張りに立つ時があった。
「お父ちゃんは頑張ったよね。でも、真面目にはやらないこともあったよね。
真っ暗だし、森の中から変な音や鳴き声がして怖いから、途中で帰ってきたことがあったんでしょう。」

父親は賭け事が好きで、兵舎の中で戦友と花札をよくやっていた。
しかし、父親は人がいいから、相手から取りすぎてはいけないと思うと
結局、いつも父親が負けて、相手にお金を払うことになっていた。
払うお金がなくなると、内地にいる母親に"金送れ"と電報を送っていた。
「博打仲間に優しいお父ちゃんだったね。」と、祐介は言う。
本当は博打が弱い父であった。

父親はいつも、
「戦争は、真面目にやってはいけない。真面目にやると、人を殺すことになるから」と言っていた。
自分のいい加減さを正当化させる言葉であったが、祐介はそんな父親が何となく好きであった。
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by gorongoronisomura | 2013-06-19 14:26 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-14 せこい小遣い稼ぎ

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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せこい小遣い稼ぎ
祐介の小遣い稼ぎは、いろいろでしたが、
これは、かなりせこいものでした。
当時、家の近くの東武伊勢崎線(現在のスカイツリー線)曳舟駅の東側は、貨物置場があった。
そこには、炭俵や空き瓶、工事用資材などが置かれていた。
祐介は、貨物置場の柵を潜り抜け空き瓶を失敬する。
一升瓶2本を頂き、酒屋に持って行くと、10円になる。
沢山積まれているので、2本位ならいいかなと祐介は思った。
昔の曳舟駅
当時の東武線は、地上を走っていて、駅舎は木造であった。
窓口で行き先を告げて、切符を買います。切符は厚紙のようなしっかりしたものでした。
切符の窓口の他、道路側に面したところに、荷物を受け取るところがあった。
宅急便などのない時代、駅がその役割を果たしていた。
駅の改札口は、西側(水戸街道側)だけで、祐介は踏み切りを渡らなければならなかった。
踏切の綱の上げ下げは、駅員さんが交代でやっていた。
時々、駅に遊びに行き駅員さんと仲良くなると、
夏の暑い日にアイスクリームをおごってもらったことがあった。
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by gorongoronisomura | 2013-06-10 23:10 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-13 270余人の指揮官

祐介物語1-13
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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狭い校庭
祐介の通う学校は、墨田区の街中にあって、
昭和20年代後半でも校庭はアスファルトであった。
校庭で遊んで、転ぶと擦り傷が出来、保健室で赤チンを塗ってもらったことを思い出す。
校庭は狭く、一周80mのトラック。
小柄な祐介にとっては、カーブがきつくてもスピードを落とさず走れた。
カーブでは、外側の腕を大きく回してコーナーいっぱいに沿って走った。
祐介は徒競走では、いつも一等賞をもらっていた。
走る時に、少しでも足が軽くなるように、
足首に輪ゴムを巻いていたことを思い出す。
当時の一等賞は、ノート一冊であって、貴重品だった。
この狭い校庭で、全校児童1500人近くが運動会をしていた。
保護者は教室から
校庭が狭いので、保護者は教室から運動会を見るしかなかった。
教室の運動場側に机と椅子を積み、観客席が作られていた。
保護者は、木造二階建て校舎の各教室の窓から応援していた。
祐介、組体操の指揮
祐介の学年は、一クラス55人で5クラス、約270人余り。
6年生の組体操は、運動会のハイライトで一番の盛り上がりとなる。。
狭い校庭いっぱいに広がり、見事な演技に見ている保護者から大きな拍手が送られた。
組体操は、指揮者の笛一つで、隊形を変え、いろいろな組体操の演技をする。
組体操の指揮者は、朝礼台の上で笛を吹く。
その役割をしたのが、祐介であった。
祐介は小柄であったが、その大役を果たした。
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by gorongoronisomura | 2013-06-06 21:08 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-12 蹴っ飛ばし自転車で

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。戦争の傷跡が、そこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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お兄ちゃん早く
祐介が5年生のとき、父親の借金が元で夜逃げ同様で引越しをした。同じ墨田区だが、30分以上歩かないと、学校に通えないところだった。
祐介は、転校しないまま同じ学校に通っていた。
2年生だった3才下の妹も、祐介と一緒に通っていた。

普段は歩いて登校していたが、起きるのが遅くなり歩いては学校に遅刻しそうになると、仕方なく自転車で登校することになる。
『お兄ちゃん!早く早く。学校遅れるよ!』と、大騒ぎとなる。
こんなことが月に1~2度はある。

大人の自転車で
家の自転車は、大人が仕事用に使う頑丈なもので、大きくがっしりしている。小柄な祐介の足では、自転車のペダルの下まで届かない。だから、上のあるペダルを思い切り蹴っ飛ばす。すると、下のペダルが上がってくる。その繰り返しで、自転車を乗っていた。

足が届かないので、自転車に乗る時は、40~50cm位の高さの足場を見つけ、そこから自転車を跨ぐ。
その自転車で、妹を乗せて学校まで行った。多少フラフラするが、そんなことは言っていられない。
止まる時も大変。乗る時と同じように40~50cm位の足場があるところを探さなければいけない。

のんびりした時代
自転車で登校しても、先生から厳しく言われることはあまりなかった。家庭事情を理解してくれていたのか、先生も学校ものんびりしていたいい時代だった。また、交通事情も今のような殺伐としたものではなかった。
ただ、道路が完全な舗装ではなかったので、後ろに乗っていた妹は、でこぼこ道で自転車が弾み『こわいよ!いたいよ!』と言って、しがみつく。そのたびに、自転車がふら付くのが祐介にとっては、余程怖かった。
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by gorongoronisomura | 2013-05-25 11:37 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-11 メンコで小遣い稼ぎ

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、そこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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メンコ遊び
祐介が小学校5~6年生の頃、男の子の遊びは、
メンコ・ベーゴマ・ビー玉・チャンバラなどであった。
祐介の得意はメンコで、小遣い稼ぎになっていた。
メンコは、高(たか)で賭ける量を決める。
賭けるメンコの枚数を数えるのが面倒なので、
適当に取って高さが同じようにして2~3人で始める。
祐介達が1回に賭ける量は、だいたい一人10cm。
高(たか)のやり方
自分の札(メンコ)を各自が決め、積み上げた(20~30cm)メンコの真ん中辺りに、
自分の札を裏にして、各自が入れる。
じゃんけんをして順番を決め、自分のメンコ(打つ専用)で、
積み上げたメンコの山を崩し、自分の札を山から出す。
山を崩すのも、崩したメンコの中から自分の札を出すのも、
自分のメンコ(打つ専用)を叩き付けるので、かなりの力と技がいる。
その上、相手の札が有利にならないように作戦も考えなければいけない。
崩したメンコから自分の札を離して、表に返せば勝ちとなる。
祐介は、この高(たか)でやるメンコが得意で、ほとんど勝っていた。
小遣い稼ぎ
勝ったメンコは、家の床下のみかん箱に貯める。
いっぱいになると、近くの駄菓子屋に売りに行く。(駄菓子屋は、買い取ったメンコを子どもに売る)
30~50円の稼ぎになる。
これが祐介の小遣いとなる。
この頃(昭和31年)、都電乗車賃13円、ラーメン30~40円であった。
メンコの効用
祐介達がやっていたメンコ遊びは、力いっぱいメンコを叩き付けて、
メンコをひっくり返すなどで、肩の筋肉が付いたといわれている。
それだけでなく、体制を低くし、バランスをとるので、足腰が鍛えられたとも言われる。
時には失敗もある。メンコを強く叩き付けようとするあまり、
地面に手の指をぶつけてしまい血を流すことがあった。
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by gorongoronisomura | 2013-05-21 23:40 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-10 下駄の前歯だけ

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
下駄の前歯だけ
祐介は、お調子者で抜け目ない性格だけに、
そそかっしいというか落ち着きがなかった。
小学3年の頃、今のような靴は高価で買えなかったため、下駄を履いていた。
少し余裕のある家の子は、ズックを履いていた。
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足の親指、ひょうそうに
祐介は、買ってもらった下駄を履くのはいいけれど、
ともかく前のめりの子で、歩くのも走るのも下駄の前に体重を掛けていた。
祐介が歩く時の下駄の音は、「カッカッカッ」と、せわしないものであった。
その結果、下駄の歯は前だけが減っても、後ろの歯はほとんど減っていない。
前画が減ることで、親指が下駄からはみ出し地面に当る。
ついに、親指の爪が傷み、ばい菌が入り、膿んでひょうそうになった。
その痛みたるや大変なもので、しばらく歩くのがやっとであった。
出生の秘密
こんな祐介の性格は、出生の時に遡る。
祐介の母親は働き者で、出産の日まで忙しく働いていた。
戌年生まれだけに、安産を絵に描いたようなものであった。
陣痛が起きて、父親が慌てて近くの産婆さんに駆け込んだ。
その間、母親は壁にもたれ「ハーハー」言っていたが、
お産婆さんが来る前、座っていた座布団に"ポッ"と祐介が生まれ落ちてしまった。
まさに、祐介は慌ててそそっかしく世の中に出たのである。
スタートがこれなので、もって生まれた性格ということになる。
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by gorongoronisomura | 2013-05-19 21:57 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-9 映画館、ただで

祐介物語
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦後の傷跡が、そこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
映画館、ただで
祐介は、小学校2~3年生の頃、親は生活のゆとりがなく、
映画などに連れて行ってもらえなかった。
祐介は調子のいい子で、知らない人に話しかけるのを苦にしてなかった。
子どもになりすまし
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当時、『アラカン』と呼ばれた嵐間寿郎の「鞍馬天狗」の映画が流行っていた。
その映画が見たくなり、祐介は考えた。
祐介は小柄なので、小学校2年生でも就学前のように見える。
そこで、映画館の前で大人の男の人で、お父さん風の人を探す。
その子どものようになり、その人に付いて入っていくようにした。
切符もぎのお姉さんの横を、そのお父さんの子どもになりすまし、
お父さんの顔を見上げるような仕草をして、通り抜けた。
映画が娯楽
昭和20年代後半の庶民の娯楽の一つとして、
映画は確固たる地位を占めていた。
映画と観客が一帯となっていて、鞍馬天狗が悪人を懲らしめるために登場する場面になると、
観客が拍手して映画館がもの凄く盛り上がっていた。
祐介もまた、拍手しながら、『がんばれ!やっつけちゃえ!』と、叫んでいた。
当時の映画館
祐介がただで入った映画館は、向島の鳩の街(昔、赤線があった)にあった金美館。
現在の水戸街道6号線から鳩の町商店街の入り口辺りにあった。
祐介の生活圏からは、少し離れていたので、映画館の人達に顔を知られていなかった。
アラカンが語る美空ひばり
映画鞍馬天狗で、杉作の役を演じた美空ひばりについて、語っていた。
「子どもの流行歌手で、多くを期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。
男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」
女優としてのその才能を認めていた。
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by gorongoronisomura | 2013-05-18 16:33 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-8 ハイ!ハイ!ハイ!

祐介物語1-8 ハイ!ハイ!ハイ!
戦後(1946年 昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区(スカイツリーを間近に見る)を中心とした
昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
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うるさく迷惑千万
祐介は、小柄で俊敏の上、目立ちたがりである。
高学年になると、授業で先生が質問したことに、答えたくて仕方なくなる。
どの教科でもそうだが、特に、算数の時間は祐介が得意だけに、手の上げ方は半端でない。
先生が質問すると、『ハイ!ハイ!ハイ!』と連呼し指名を求める。
質問の答えとしては、間違いではないが、
ゆっくりじっくり考える子にとっては、うるさく迷惑千万であった。
先生も分かっているので、祐介が手を上げると、『静かに手を上げなさい』と、注意する。
できるだけ他の子を生かしたいと考える先生は、祐介以外の子を指名する。
祐介スルスルと
それが不満の祐介は、指名して欲しさに黙って手を上げたまま、席を立ち先生の方に向かう。
その挙句、先生の顔の前で、手を振りアピールする。
祐介達は、戦後のベビーブームの走りで、今の教室と同じ広さに55人が勉強していた。
木製の二人机がびっしり並び、歩く隙間がないようなところを
祐介はスルスルと前に出て行く俊敏さを持っていた。
先生は怒り、祐介を後ろの黒板の前に立たせる。
その程度で諦める祐介でない。
次の質問に対する指名を求め、立っているところからまた、
先生のところまで行き、先生の顔の前で手を振り、指してもらおうとする。
ついに廊下へ
ここまでくると、さすがに先生の怒りは一段階上がり、祐介を廊下に立たせた。
廊下に立たされた祐介は、通りがかりの先生に『またやったのか。少しは反省しろ」と、言われた。
廊下に立たされたことは、一度や二度でないことが祐介らしい。
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by gorongoronisomura | 2013-05-14 22:23 | 祐介物語 | Comments(0)

祐介物語1-7 祐介、牛若丸か、浅草松屋で

祐介物語
戦後(1946年、昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区を中心とした昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
浅草松屋の遊技場
祐介5年生の秋の日曜日、いつもの遊び仲間の政夫と明を伴って浅草に出掛けた。
今日は、浅草松屋の5階にある遊技場での遊び。

当時の松屋5階には、ローラースケート・射的・豆自動車・輪投げ・
ボール投げの的当て・豆汽車・自動木馬などがあった。
子供にとって楽しい乗り物で、日曜日だけに親子連れがほとんどで、
祐介達のような子供だけのグループはあまり見かけなかった。
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射的でキャラメルを
祐介達は、楽しげに親に手を振って乗り物に乗っている子を見ているばかりであった。
祐介達は、3人の小遣いを合わせて、射的をすることにした。
射的でキャラメルを打ち落とせば、3人で分けられる楽しみがあるから。

最近は、温泉街でも射的をあまり見なくなったが、射的銃の先にコルクの玉を押し込め、
的を打ち落とす遊びである。


キャラメルゲットの祐介作戦
射的は一人分しかない。打つのは身体の大きな政夫か明。じゃんけんで明となる。
コルクの玉は10個、初めの5個でキャラメルを打ち落とせなかった。
このままでは、キャラメルが取れないと考えた祐介は、
身体の大きな政夫と明を射的のカウンターから乗り出すようにさせた。
2人で壁を作り、係りの人の目が届かないようにして、
敏捷な祐介は、カウンターを飛び越え、中に落ちているコルクの玉をかき集めポケットに入れ、
再びカウンターを飛び越え戻った。
増えた玉で、明は念願のキャラメルを一つ打ち落とすことに成功した。
祐介、怪我
玉が余っていたので、祐介も銃を借りて打った。
ところが、銃身の支え方が悪く、左の人差し指を
戻ったバネに挟まれ切ってしまった。
出血は大したことなかったが、係りの人が飛んできて、
医務室に連れて行ってくれた。
祐介は、悪いことをした報いかなと、医務室を出る時、丁寧にお礼を言った。

浅草松屋は、戦争の空襲で焼失。
昭和22年(1947年)4階建てで開業。
昭和26年5階建てに増築し、遊技場が5階に移転した。
その後、昭和32年、遊技施設が屋上に移転した。
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by gorongoronisomura | 2013-05-12 20:53 | 祐介物語 | Comments(0)