祐介物語
戦後(1946年、昭和21年)生まれの祐介という子が、たくましく生きた物語です。
戦争の傷跡が、街のそこここに残る墨田区を中心とした昭和20年代後半から30年代の頃の話です。
浅草松屋の遊技場
祐介5年生の秋の日曜日、いつもの遊び仲間の政夫と明を伴って浅草に出掛けた。
今日は、浅草松屋の5階にある遊技場での遊び。
当時の松屋5階には、ローラースケート・射的・豆自動車・輪投げ・
ボール投げの的当て・豆汽車・自動木馬などがあった。
子供にとって楽しい乗り物で、日曜日だけに親子連れがほとんどで、
祐介達のような子供だけのグループはあまり見かけなかった。
射的でキャラメルを
祐介達は、楽しげに親に手を振って乗り物に乗っている子を見ているばかりであった。
祐介達は、3人の小遣いを合わせて、射的をすることにした。
射的でキャラメルを打ち落とせば、3人で分けられる楽しみがあるから。
最近は、温泉街でも射的をあまり見なくなったが、射的銃の先にコルクの玉を押し込め、
的を打ち落とす遊びである。
キャラメルゲットの祐介作戦
射的は一人分しかない。打つのは身体の大きな政夫か明。じゃんけんで明となる。
コルクの玉は10個、初めの5個でキャラメルを打ち落とせなかった。
このままでは、キャラメルが取れないと考えた祐介は、
身体の大きな政夫と明を射的のカウンターから乗り出すようにさせた。
2人で壁を作り、係りの人の目が届かないようにして、
敏捷な祐介は、カウンターを飛び越え、中に落ちているコルクの玉をかき集めポケットに入れ、
再びカウンターを飛び越え戻った。
増えた玉で、明は念願のキャラメルを一つ打ち落とすことに成功した。
祐介、怪我
玉が余っていたので、祐介も銃を借りて打った。
ところが、銃身の支え方が悪く、左の人差し指を
戻ったバネに挟まれ切ってしまった。
出血は大したことなかったが、係りの人が飛んできて、
医務室に連れて行ってくれた。
祐介は、悪いことをした報いかなと、医務室を出る時、丁寧にお礼を言った。
浅草松屋は、戦争の空襲で焼失。
昭和22年(1947年)4階建てで開業。
昭和26年5階建てに増築し、遊技場が5階に移転した。
その後、昭和32年、遊技施設が屋上に移転した。